源頼朝が幕府を開くよりも前、平安時代末期の鎌倉には鎌倉郡の郡衙(市役所のようなもの)が置かれていました。
現在の御成小学校で行われた発掘調査からはそれを裏づける奈良〜平安時代の建物跡や木簡が発見されています。
御成小学校の前を南北に走る今小路通りの一部は、中世には武蔵大路と呼ばれていました。
源頼朝の父・義朝の館跡に建てられたとされる寿福寺もこの通りに面しており、鎌倉に幕府が開かれる以前はここが都市鎌倉のメインストリートだったと考えられています。
鎌倉の象徴ともいえる鶴岡八幡宮を創建し、その参道で日本の道100選にも選ばれている若宮大路を開いたのも源頼朝です。
由比の八幡宮を現在の位置にあたる小林郷に移した頼朝が次に考えたのは八幡宮までの参道の整備でした。
当時、現在の二の鳥居あたりから浜までは湿地帯が広がっていて曲がりくねった道があるばかりだったといわれています。頼朝はそれを整え、海岸まで続く一本のまっすぐな道にしようと考えたのです。
しかし実際にはなかなか着手できず、実際に起工したのは寿永元年(1182)のことでした。この3月に妻・北条政子が懐妊したため、その安産を祈願する意味も込められています。
頼朝自身が指揮をとり、政子の父親・北条時政を始めとする御家人たちも参加する一大プロジェクトだったのです。
なお、鶴岡八幡宮の本殿が現在の位置に移ったのは、建久二年(1191)、山裾に置かれていた若宮が火災で消失したのがきっかけです。
京都にある石清水八幡宮を正式に灌頂し、武家の都の守護神を祀る神社はこのとき名実ともに誕生したのです。
意外なことですが、若宮大路沿いに建てられていた御家人の屋敷は大路に面した門を設けずに建てられていました。
側溝はゴミ捨て場の役割も果たしていたため、さまざまなものが投げ込まれてあまり清潔とはいえなかったようです。
しかし発掘調査を行うとかわらけや陶磁器、漆器や箸といった木製品など多種多様な出土遺物が見つかっており、当時の人々の生活を垣間見る手がかりを与えてくれます。
鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』にはこんな話があります。
源義経のライバルとして知られ、十三人の合議制にも名前を連ねている梶原景時は、源平合戦では軍監、つまり頼朝の代理として軍勢を監督する役目を与えられていました。
平家との戦いに勝利した、壇論功行賞での席のこと。
梶原景時はとある武士の証言を疑い、その手柄を否定します。ところが別の武士の目撃情報から間違っていたのは景時の方だと判明するのです。罰として景時は頼朝から道路の整備を命じられました。
景時と同じく十三人の合議制に参加した武士の一人である八田知家も、部下が京都での任務をさぼったのを理由に道路の補修をさせられています。
二人が整えた道が現在のどのあたりなのか、今となっては残念ながらわかりません。
今歩いているこの道も、もしかたら鎌倉武士たちのしくじりで整備されたのかもしれないと想像しながら歩いてみるのもおもしろいかもしれません。
★梶原景時:鎌倉時代初期の武将。鎌倉御家人。源頼朝の信任が篤く、侍所別当も務める。頼朝の没後は十三人の合議制に参加。
★八田知家:下野国(現在の栃木県)の御家人・宇都宮氏の一族。源義朝のご落胤という説もあり、十三人の合議制に加わっている。
★吾妻鏡:鎌倉時代中期から後期にかけて編纂された鎌倉幕府の公的記録。
★十三人の合議制:鎌倉幕府二代将軍・源頼家の代に定められた13人の有力御家人による幕府の意思決定システム。
ライター:井上 渉子
主なお仕事
「お伽草子外伝 お伽草子紀行」(日本テレビ)
「乙女の平家物語」(新人物往来社)
「鬼滅の刃をもっと楽しむための大正時代便覧」(辰巳出版) その他コラム多数