中世都市・鎌倉の歴史は治承四年(1180)、源頼朝がこの地を拠点に定めたことに始まります。
平治元年(1160)、平治の乱に敗れて20年を伊豆の韮山(にらやま)で流人として過ごしていた源頼朝は、治承四年(1180)に以仁王の綸旨(もちひとおうのりんじ:高倉天皇の兄宮・以仁王による打倒平氏の命令書)をきっかけに挙兵しました。
伊豆の目代・山木兼隆を討ちとって緒戦を勝利で飾った頼朝でしたが、続く石橋山の合戦では平家に従う武士の前に敗北してしまいます。
海路で逃れた頼朝は、房総半島で味方の武士たちと合流して体勢を整えました。そして地元の武士を新たな味方に引き入れながら進軍を続け、腰を据えたのが鎌倉だったのです。
これは当時、鎌倉が鎌倉郡の郡衙が置かれていたことや父・義朝の館があったのが理由とされています。
頼朝自身も当初は義朝の旧宅に自邸を構える計画でしたが、土地が手狭だったとして断念し、かわりに父の菩提を弔うための寺を建てることにしました。
もしここに幕府があったら、現在の鎌倉の町ももう少し違った姿を見せていたことでしょう。
鎌倉入りした頼朝はまず、由比郷にあった八幡宮(現在の元八幡)を灌頂して小林郷(現在の雪ノ下付近)の北山のふもとに若宮を造営しました。
これが鶴岡八幡宮の始まりで、頼朝自身は八幡宮の東に位置する大倉郷に住まいを構えます。現在の清泉小学校の敷地がここに含まれ、大倉御所・大倉幕府などと呼ばれたこの場所が、源氏将軍3代の拠点となりました。
頼朝の没後、その息子である頼家、実朝が2代続けて跡を継ぎますが、建保七年(1219)、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した源実朝が甥の公暁に暗殺されたことから頼朝の嫡流が絶えてしまいます。
京都の後鳥羽上皇は幕府が動揺した隙をついて時の執権・北条義時を除こうと画策しましたが、東国の御家人は頼朝の妻・北条政子の呼びかけに応えるかたちで団結し、後鳥羽上皇の軍勢を破りました。
承久の乱と呼ばれたこの戦いを通じて、鎌倉の武家政権はひとつの完成をみるのです。
源氏の将軍が3代で滅ぶと、幕府は摂関家から頼朝の遠縁にあたる九条頼経を新しい将軍として迎えることにしました。
この頼経と息子の頼嗣は摂家将軍と呼ばれていますが、成長すると相次いで京都に送り返されてしまいます。以後の将軍は、皇族から親王を迎えるのがならわしになりました。
この頃になると将軍は権威の象徴としてすっかり実権を失っており、代わりに権力を掌握し、鎌倉幕府を動かしていったのが将軍の補佐役である北条一族だったのです。
北条義時の息子で御成敗式目を定めたことで知られる北条泰時や、鉢の木のエピソードで知られる5代執権・北条時頼、その息子で元寇に立ち向かった8代執権・北条時宗は特に有名です。
有力御家人を次々に滅ぼして絶大な権力を手に入れた北条一族でしたが、元の襲来などをきっかけに武士たちの多くは困窮していきました。
その不満を汲んだ後醍醐天皇に従う足利尊氏や新田義貞らは反北条勢力を集めて蜂起し、鎌倉に攻めこみます。追い詰められた北条一族は当主・北条高時を筆頭に東勝寺で自害して滅亡したのでした。
なお、北条一族の女性たちは命までは奪われることはありませんでした。出家して伊豆国の韮山に送られ、一族の菩提を弔いながらひっそりと余生を送ったのです。
鎌倉時代の歴史は、源頼朝・政子夫婦に導かれた北条一族が故郷の伊豆を離れて鎌倉で繁栄し、やがて滅んで故郷に帰っていった物語ともいえるでしょう。
ライター:井上 渉子
主なお仕事
「お伽草子外伝 お伽草子紀行」(日本テレビ)
「乙女の平家物語」(新人物往来社)
「鬼滅の刃をもっと楽しむための大正時代便覧」(辰巳出版)